歎異抄について(続き)

      2018/08/12

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歎異抄について、先日、「悪人正機」の途中になっていましたね。

※前回の記事はこちら「歎異抄について」

 

「善人 なおもって往生を遂ぐ

 いわんや 悪人をや」

善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら助かる。

親鸞聖人が、このように言われているのは、仏教の教えを言われているので、

仏教で「善人」「悪人」とはどういうことなのか。

 

ちなみに、歎異抄は、親鸞聖人が亡くなられてから書かれたのもので、

著書の名前のとおり「異なるを歎いて(嘆いて)」あらわされたものです。

 

今なお著者は不明で、親鸞聖人のお弟子の唯円だろうといわれていますね。

親鸞聖人が、亡くなられてから

「親鸞聖人が教えられていないこと(異なったこと)を

これが親鸞聖人の教えられたことだ、というものが色々あらわれ、

それを嘆いて、その誤りを正すためにあらわされた」ということです。

 

ところが、皮肉なことに、歎異抄は、歴史の教科書にものるような

上記の短い言葉からも分かるように、

仏教の基本的なことはもちろんですが、正しく理解しようとすると、

かなり仏教をよく知らないと誤解してしまうところが、少なくないんです。

誤解を正そうとしてあらわした「歎異抄」を読んで、誤解をしてしまう・・・。

 

それで、蓮如上人(本願寺8代目法主)は、

「この歎異抄は、仏縁深いひとが読めば、とても素晴らしいものだが、

仏縁の浅い人が読めば、大変な間違いをしてしまうから、

読ませてはならない」と

奥書をつけ加えられて、歎異抄を封印された経緯があります。

 

前置きは、このぐらいにして・・・・。

それだけ「善人」「悪人」といっても、

単純な意味ではないんだな、と少しわかっていただければ!

 

まず、世の中の常識からいえば、

「悪人でさえ助かるのだから、

善人は、なおさら助かる」です。

 

ところが、歎異抄には、

「善人でさえ助かる。

だから悪人はなおさらだ」とあります。

最初にも書いたように、仏教の教えをいわれたものです。

 

仏教で、私たち人間を凡夫(ぼんぶ)といわれ、

「煩悩具足の凡夫」と教えられます。

欲や怒りや愚痴の煩悩のかたまりということで、煩悩しかない。

だから、煩悩に染まらない仏性など無い、ということです。

 

寺に生まれた私がもっていた仏教のイメージは、

親鸞聖人がそうであったように、比叡山のような山に入って仏道修行をして、

煩悩と向き合い、煩悩をなくして、自分の中にある仏性(仏になる性)を

磨きだせば助かるのだろう、というものでした。

 

実際、親鸞聖人も、9歳で比叡山に入られて20年間、仏道修行をされましたが

「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて

欲もおおく、いかり腹立ち、そねみねたみのこころ多くひまなくして

臨終の一念にいたるまで、止まらず消えず絶えず」(親鸞聖人)

と言われています。

原文は、ちょっと難しいですね、私も最初はそうでした。

 

仏道修行によって、煩悩をなくそう、消そうとされましたが、

死ぬまで(臨終の一念まで)煩悩は無くならない、

煩悩100%で、仏性などない、と知らされられて

「いづれの行も及びがたき身なれば

とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と言われています。

 

いづれの行とは、あらゆる善行で、仏道修行によって、

煩悩を断ち切って、仏性を磨きだそうとされましたが、

仏性などなく、煩悩のかたまりの親鸞は、地獄一定だと

言われています。

 

仏性のような輝くものが自分の中にあるはずと思っていた私は、

衝撃を受けました。

人に親切したり、困っている人を助けたりするのは、

善いことのはずなのに、煩悩しかない、というのは

どういうことなのか?

 

これについて、ある小説の一節を読み、疑問が氷解したのを覚えています。

あらましは、以下のような内容でした。

大雪の夜、列車から降りて、山の上にある家に馬車で帰ろうとした青年が、

駅前で寒さに震えながら物乞いをしている老人をみかけます。

ほとんどの人は、見て見ぬふりをしていますが、

青年は、立ち止まって「今持っているわずかなお金は、馬車代分しかない。

老人にお金を渡せば、何時間も雪の中、歩いて帰ることになる・・・。

たとえお金を渡さなくても、誰からも責められることはない・・・」と

思いをめぐらしながら、最後は、老人にお金を渡して、雪の中、青年は

歩いて帰る、というものでした。

 

この小説の作者は、この時の青年の心の深いところを

「もし、老人にお金を渡さず、馬車で家まで帰っていたならば、

馬車のなかでも、あの老人は、この寒さの中、大丈夫だろうか、

家に帰って暖をとり、スープを飲み、ベットに入っても

老人が寒さに震えている姿が思い出されて、心休まることは

なかったかもしれない。それが、わずかな馬車代を渡すことで

体は雪の中、歩いて帰ることになったが、精神的には、

どれだけ楽になり、一晩の熟睡を手にすることができたのである」と

あらわしていました。

 

親鸞聖人は、「名利の大山に迷惑して」と言われて、

名誉欲と利益欲一杯で、

人からほめてもらいたい、人から悪く言われたくない(名誉欲)

利益を得る、儲かることなら、何でもやる(利益欲)にふりまわされて

こまりはてている、と。

 

私たち人間のやることは、すべて欲が元。

名誉欲か利益欲のどちらかで動いているといっても過言ではないんですね。

 

たとえば、痴漢や盗撮行為は、後を絶ちませんが

それらをやってしまう人は、目先の欲望(利益欲)に

ふりまわされているからですし、

やらない人は、「もしばれたら、新聞にのったり、近所の人に知られて

どんなことを言われるか・・・」と名誉を守ろうとする心が

根底にはある、ということです。

 

さきほどの小説で、青年のとった行動は、もちろん称賛されるべきことですし、

困っている人を見て見ぬふりをすることは、

人として悲しいことに間違いありません。

 

深読みしすぎ、と中には思う人もあるかもしれませんが、

老人にお金を渡した青年の心の根底に

「このまま老人を見過ごしてしまったら、馬車にのっていても

スープを飲んでいても、ベットに入っていても、

心休まるだろうか・・・」と良心の呵責にも似た心の苦しみを考えたら

雪の中、歩いて帰ったほうが楽ではないか、と

自分が楽になる方を選んでいるとは、言えないだろうか。

 

困っている老人を助けたいと思った青年ですから、普段から心優しい、

人に親切もよくしていることだと思います。

実は、人助けをしたり、人に親切したりしている人ほど、

自分の心の中の相(すがた)が知らされてくると仏教で教えられています。

 

人のためと思ってやっていることなのに、心の根底には

(表面上はそうではないが)利害打算や損得勘定などが働いていて、

自分のためになることをやっているではないか・・・。

 

「人の為」と書いて「偽」。漢字はうまくできていますね。

100%人のためと思ってやればやるほど、心の底で動いているのは、

自分の名利を求める欲でやっている、と知らされてくる。

 

親鸞聖人は、比叡山で善行につとめて、仏性を磨きだそうとされましたが、

修行をすればするほど、名利を求める煩悩しかないと知らされられたのです。

 

煩悩しかなければ、仏性がないのですから、

「地獄は一定」と親鸞聖人は、言われています。

 

そんな煩悩具足の人間のことを「悪人」と

歎異抄で言われています。

「善人」とは、それに対して、

その気になれば、名利を求める心が一切ない善ができると思っている人を

言葉は悪いかもしれませんが、皮肉られて「善人」と言われています。

 

かなり長くなりましたね。

ここで一旦、筆を置きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 - 仏教

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