歎異抄について

      2018/08/12

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浄土真宗の寺院に生まれながら、仏教のことも、親鸞聖人のことも、

ほとんど知らないまま大学生になった私でしたが、

中学の歴史の教科書に、鎌倉時代の親鸞聖人の記述に

「悪人正機」とあったことは、鮮明に覚えていました。

 

「歎異抄」

「善人なおもって 往生を遂ぐ

 いわんや  悪人をや」

とあり、

「善人でさえ助かる まして 悪人はなおさら助かる」という

謎めいた言葉にひきつけられたのを覚えています。

 

「昔の偉い人は、一般の人には、なかなか分からないことを

言われたんだろう」と思いながらも、

「何か深い意味があるのでは・・・」とも一方では思っていました。

 

「悪人正機」(あくにん しょうき)とは、悪人が正客ということで、

悪人こそが救われる、ということ。

 

「これが本当なら、悪いことをすればするほど、助かることになる!?」

しかし、そんなはずはありませんから、

「悪人」がどういう意味で言われているのか?

 

仏教を深く学ぶようになって、仏教で「悪人」とは

「誰のことなのか」「どんな人のことなのか」が分かりました。

 

「悪い人」といえば、法律の立場から言えば、「法を犯した犯罪者」です。

もちろん、仏教で「悪人」というのは、「犯罪者」という意味ではありません。

もし、犯罪者が「悪人」なら、大変なことになってしまいますね(T_T)

 

では、次に道徳・倫理の立場から「悪い人」といえば、

「礼儀・作法のなっていない人」

法律は犯していないけれど、行儀が悪い、言葉遣いがなっていない、など

これに当てはまる「悪い人」は、幅が広がりますね。

 

しかし、仏教で「悪人」と教えられるのは、道徳・倫理の立場から

「悪い人」という意味ではありません。

 

今回は、結論だけになってしまいますが、

仏教で「悪人」というのは、「煩悩具足の凡夫」のことで、

「煩悩にまみれ、欲望がうずまき、怒りの心が燃え盛り、うらみ、ねたみの心が

とぐろを巻いているすべての人間(凡夫)」のことなんです。

 

「煩悩で悪を造る」これが仏教で悪人と教えられる意味を知る時に、

大切になってきます。

 

仏教のことを書き始めると、あれもこれも書きたくなるのですが、

今回は、ここで一旦、筆を置きますね。

 

それにしても、歎異抄は、「誤解された歎異抄」などと言われて、

名文で、多くの人をひきつけますが、

名文なるがゆえに、省略されている言葉も多く、

(説明口調の文章は、名文にはなりにくいですもんね)

仏教の深い理解がなければ、一般常識的な意味で理解しようと

してしまって、とんでもない誤解を生みやすい言葉が

他にも多くありますね。

 

歎異抄は、親鸞聖人の肉声(仰ったことがそのまま書かれている)が

記されているものとしては、唯一といわれることもあり、

親鸞聖人に関心のある方は、よく読まれます。

 

 

親鸞聖人が書かれたものは、たくさんありますが、それは

話し言葉ではなく、書き言葉、特に仏教の難しい言葉を多く使われていますので、

私も、仏教を学び始めた時は、最初の一行目から意味が「?」の連続でした(笑)

 

親鸞聖人の書かれたもので一番親しまれているのは「正信偈」ですね。

小学生の頃から、住職の父と一緒に、お勤めをするとき正信偈は

読んでいましたから、暗記までしていましたが、

「帰命無量寿如来 南無不可思議光~」と始まり、漢字ばかりですから、

これも意味は、一つも分かりませんでした(苦笑)

 

それに比べて、「歎異抄」は、ひらがなまじりで、謎めいた言葉も

ちりばめられていて、親鸞聖人の話し言葉が記されているので

私も、すごくひかれました。

 

歎異抄の解説をした書籍は、たくさんありますが、オススメは

「歎異抄をひらく」ですね!

 

 

 

※続きの記事はこちら「歎異抄について(続き)」

 - 仏教

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