仏教:正信偈について(続き)

      2018/08/12

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正しい信心

 

前回の記事で、「正信偈」は「正しい信心を偈(うた)のかたちで教えられている」

ところをみてきました。

 

正信偈は、漢字ばかりで、しかも仏語(仏教の言葉)は、短い言葉でも

深い意味がありますから、一般常識で仏語を読むと、誤解してしまうことが

少なくありません。

 

たとえば、「乞食」というのは、もともと仏教の「乞食の行」という

修行からきているのですが、「乞食」ときくと「物乞いをする」ことと

思ってしまいますよね。

 

「乞食(こつじき)の行」とは、托鉢のことで、

修行僧が、施しをうけるために、一軒一軒、まわっていくことをいいます。

 

お釈迦様ご自身も、乞食の行、托鉢をされました。

お釈迦様のように仏のさとりをひらかれた方に、施し(布施)をするのは、

施した人の功徳になり、

お釈迦様の教えを伝える僧にも、施し(布施)をすることは、功徳になると

教えられています。

 

聖徳太子は、日本に仏教を伝えられた方で、難しい経典の講釈もされていたほど、

仏教に精通されていました。

十七条憲法の第二条には「篤く三宝を敬え 三宝とは仏・法・僧なり」とあり、

私達を幸せにする「宝」が三つあると教えられています。

「仏宝」:お釈迦様のように仏のさとりをひらかれた仏さま。

「法宝」:仏の教え(法とは、教えのこと)

「僧宝」:仏の教えを伝える僧のこと。

本来、僧とは、仏の教えを自らも求め、人にもお伝えることだけが仕事なんですね。

 

それが、葬式仏教、法事仏教となって、葬式、法事、戒名や法名をつけることが

仕事のようになっていて、「教えを伝える」という本来のすがたを見失っているのは、

残念なことです。

 

仏の教えを自らも求め、人にも伝えている修行僧ならば、布施をすることは

施した人の功徳になるということです。

 

街なかで、虚無僧のような身なりで托鉢しているのを見かけることがありますね。

本当に虚無僧なのかどうか、怪しい感じもしますが、

もし本来の僧ならば、布施をしたときに、

布施をしたこちらが「ありがとうございました」とお礼をいうのが作法なんです。

 

よく読んでいる人は、「逆じゃないのか?」と思ったかもしれません。

普通は、施しを受けた人が、「ありがとうございました」とお礼をいいますが、

施しをした人が、僧に対して「ありがとうございました」とお礼をいうので、

「逆じゃない?」と思うのは当然です。

 

「僧宝」とは、私達に宝のありか(仏の教えのこと)を教えてくれる人なので、

その人に、施しをするのは「功徳」になるということ。

そんな「僧」には、山の中に入っていかないと会えないところを

「山の中から出てきてもらって、おかげで布施の功徳を求めることができました」

という気持ちで「ありがとうございました」とお礼を言うのが作法なんです。

 

※あくまでも、本当に仏教を求めている「僧」に対してですよ※

 

「乞食の行」をお釈迦様がなされたのも、2600年前のインドでのこと、

お釈迦様が仏のさとりをひらかれたことを知らない人がほとんどです。

お釈迦様のお話を最初から聞こうとする人も、わずかだったに違いありません。

一人でも多くの人が、仏縁を結びやすいように、まずは、布施を受けられるところから

はじめられたのでしょう。

 

「仏語」は、短くても深い意味がある、というところから話が長くなりましたが、

「正しい信心」に話を戻しますね。

 

正信偈に、正しい信心について「已能雖破無明闇」と教えられています。

臨終となっても、裏切られることのない「正しい信心」について

「破無明闇」、無明の闇が破られたのが正しい信心と教えられています。

 

「無明の闇」とは、仏教の言葉で、大変深い意味がありますので、

例えるならば、万有引力の法則を小学生に教えるような難しさがありますが、

少しでも分かってもらえるように努めたいと思います。

(小学生にたとえて、スミマセン・・・・)

 

「無明の闇」とは、「明かりの無い闇の心」のことで、私達すべての人が

この心をかかえています。

この真っ暗な闇の心を、たとえるならば、「暗黒の夜空」のようなもので、

夜空を明るくしようとして、ロウソクをつけたところで、明るくなりませんね。

蛍光灯をつけても、100万ドルの夜景をもってしても、夜空は暗いままです。

打ち上げ花火を上げると、見事な花火に目を奪われて、

夜空の闇には目が向かなくなりますが、花火によって、暗闇がなくなることは

ありませんね。

打ち上げ花火が、数時間で終わってしまうと、漆黒の夜空が残っているだけです。

 

打ち上げ花火にあたるのが、人生でいえば、

「大学に合格できた!」「仕事がうまくいって儲かった!」

「好きな人と結婚できた!」「念願のマイホームを建てた!」と

幸せを手にしたときで、

花火に夢中になっていますから、暗い夜空のことは忘れていますが、

花火が終わった時に、人生でいえば、幸せが一つ、また一つと消えて

いった時に、最後、「明かりの無い闇の心」に気づかされます。

 

花火をどれだけ打ち上げても、深い夜の闇は消えることはありませんが、

そんな闇が、一瞬で消えてしまう時があります。

 

街中の明かりをつけても消えなかった夜の闇が、

太陽の絶大な光によって、一瞬で消えてしまいます。

 

無明の闇という夜空は、

「金は弥陀より光る」といわれますが、お金ぐらいの明かりでは、なくなりません。

オリンピックで金メダルをとっても、ワールドカップで優勝しても、

無明の闇を破る明かりにはならないんです。

 

太陽の光によってはじめて、夜空が明るくなるように、

無明の闇が破られ、明るい心になったのが「正しい信心です」

 

この心は、臨終になってもなくなることがありません。

そんな「正しい信心」を得てはじめて、

変わらない本当の幸せになれるのだよ、と正信偈に教えられています。

 

 

 

 

 

 

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