仏教:正信偈について

      2018/08/12

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正信偈の意味

 

京都の実家は、浄土真宗の寺院で、幼い頃から、

「正信偈」は親しんでいたので、暗記していたぐらいです。

漢字ばかりですから、意味は、さっぱり分からないままでしたが、

何か深い意味があるんだろうな、とは思っていました。

 

正信偈は、親鸞聖人がかかれたものですね。

「鸞」の字は、「糸しい 糸しい と言う 鳥」と

覚えたらいいよ、と教えてもらってすぐに覚えました。

 

※ちなみに「恋」も、旧字体は「戀」と書いて

「糸しい 糸しい と言う 心」なんですよ。

 

昨年のお盆の時に、正信偈について、御門徒の方にお話したことを

書いてみたいと思います。

 

正しい信心について

 

「正信偈」とは、「正しい信心の偈(うた)」ということで、

親鸞聖人が、私達に、偈(うた)のかたちで、

「正しい信心」を教えられたものです。

 

「信心」と聞くと、神や仏を信じることが、まず思い浮かびますよね。

特に、日本では、「無宗教」がほとんどといってもいいかもしれません。

合格祈願や安産祈願にいったりしても、

基本的には、特定の宗教を信じることはしていない「無宗教」が多いと

思います。

 

そんな人は、何も信じていないかというと・・・・。

 

心で何かを信じていれば、信心ですから、

「明日も生きているだろう」と命を信じていたり、

「病気で寝たきりになることは、まだないだろう」と健康を信じていたり、

「これだけ貯金があれば、老後は大丈夫だろう」とお金を信じていたり、

「妻や夫が裏切ることはないだろう」と妻や夫を信じていたり、

いろんなものを信じて、たよりとしていますよね。

 

何かを信じてたよりにしていますから、

たくさんの「信心」をもっているんです。

 

ちなみに、「信」とは「人」の「言(ことば)」を

「信」じるという漢字のつくりからも分かるように、

オレオレ詐欺や特殊詐欺に代表されるように、

電話口の言葉だけで「間違いなく息子だった」と信じてしまうと

あとは、大金でも振り込んでしまいます。

 

そう簡単にだまされないぞ、と思っていても、

儲け話や、男女の色恋沙汰など、相手の言葉を額面通りに受け取って、

信じてしまう・・・・。

 

話を元に戻して、信心といっても、

神や仏を信じるだけが信心ではなく、

「イワシの頭も信心から」といわれるように、

イワシの頭のようなものでも、ダイヤモンドより価値があると信じていれば、

それは「信心」といえるんですね。

 

周り中から、「あの人だけは、やめておいた方がいいよ」と言われても、

好きになったら、愛は盲目といわれますが、駆け落ちまでしてしまうのは、

「イワシの頭も信心から」の一例です。

(もちろん、駆け落ちして、うまくいく場合もあるでしょうけれど・・・)

 

たくさんの信心をもっている私達ですが、その信心が

「正しい信心」かどうかを確かめてみましょう。

 

やがて裏切る信心なら、裏切られた時、苦しみ、悩み、そして

怒り、悲しみとしかなりませんから、

その信心では、幸せになれませんね。

裏切るまでは、いいんですよ。

信じられる間は、それで幸せを感じられますから。

ところが、深く信じていればいるほど、信じていたものを失ったり、

信じていてものに裏切られたりした時の苦悩は、一層深くなってしまいます。

 

ほとんどの人が、一番信じているものとして、

「健康」があげられると思います。

「あなたの片目を、30万円でゆずってもらえませんか?」と

言われて、「どうぞ」と差し出せる人は、まずないでしょう。

「300万円ならどうですか?片方の目を失っても、もう片方が残るじゃないですか」

と言われても、譲れませんね。

「3000万円」なら考えます、という人は中にいるかもしれませんが・・・。

目一つに、私達は、3000万円以上の価値があると思っているということです。

「片腕を、1000万円でゆずってもらえませんか?」

その足、その耳、・・・とみていくと、「健康」に何億円という価値が

あると信じています。

 

元気な時は、健康で当たり前ぐらいに思って、信じていないようにみえますが、

心の底では、健康を大変深く信じているんですね。

 

その健康を失った時、「健康の信心」が崩れてしまいます。

いよいよ臨終となると、

「お金はいくらでも用意しますから」と言っても、

お金の力では、助かりません。

ゴットハンドと言われる医師の力でなら、助けられるかというと、

医者の力でも助けられませんし、家族が枕元に集ってくれても、

家族が助けてくれるのでもありません。

 

やがて私から離れていったり、私を裏切ったりする信心しか持ち合わせて

いないと、幸せには絶対になれませんから、

親鸞聖人は、いよいよ死ぬとなっても、絶対に裏切ることのない「正しい信心」を

持ちなさいよ、と正信偈に教えられています。

 

「正しい信心」をどのように教えられているか、次に続けたいと思います。

続きは、こちら!

 

 - 仏教

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